豊橋技術科学大学 総合教育院

教員の生の声

理解を探そう!

岡田 浩

「理解する」という言葉があります。例えば、方程式が理解できたとか、講義の内容が理解できた、という具合です。「理解する」、あるいは「理解できた」とはどのようなことを指すのでしょうか?

「理(ことわり)を解(と)く」と書いて「理解」。正しいと認められている説があったとしても、それを自分が受け入れられるかどうかは別問題でしょう。また、受け入れることと理解することは、ちょっと違う気がします。知識として覚えることや、いつでも取り出せるように整理することが「理解」であるならば、膨大な記録を誇るコンピュータは理解の権化であるはずです。「知っている」と「理解している」はやはり別なのです。

工学では、知識を覚えるだけでなく思考する能力が重要だと言われます。それは、沢山の知識を知っているだけではなく、先人の知恵を未来に生かす自分の知恵も求められるからです。「覚える」ことは過去に解かれた問題の答えを引き出すには有用でしょう。でも、誰も解決していない問題に挑戦するため知恵を絞るには「理解」していることが必須です。

「覚える」については様々な記憶術や暗記法があります。対して、「理解できたということは、説明できるということだ」とも言われます。では、説明できるとはどういうことか? 「説明すること」が新しい事柄を既知の複数の言葉で置き換えたり、受け入れられている考え方に言い換えたりすることであるならば、説明するためには、自分の中に「言葉」を持っていることが重要でしょう。つまり、理解するとは、自分の中にある適切な言葉を探すことである、とも言えるのではないでしょうか。そうであるならば、自分の中に沢山の言葉を持ち、言葉を適切に使って考えることが、理解をするために重要だと言えます。

例えば物理学は自然科学の一派で、数学や化学をはじめ他の多くの学問とも深い関連があり、さらに、自然科学以外の学問の知恵からも多くの示唆を受けています。多くの先人たちが芸術を大切にしてきたことも見逃せません。いろいろな分野からピンとくる言葉や考え方を学ぶことが理解を助けるのだと言えます。研究をしていると、多かれ少なかれ学問の最先端に立つことがあります。そこはぐるりと360度、未知の分野に面しているはずです。自分もまだ確信をもてないものをどうやって確かなものにするのか? 世界の誰も理解できていない未知の現象を自分の中の言葉で理解して、多くの人に理解してもらえたら素敵なことだと思いませんか?

「覚える」勉強から自由になって、洋々たる未来を描くためにも、多くの言葉を身につけ、自分の言葉で考えるようになってください。「理解する」には意外に時間がかかるものですが、自らの裁量で学ぶ経験は、大学で学ぶ魅力の1つです。

情報化社会だからこそ必要な教養教育

稗田 睦子

多くの大学生にとっての「教養科目」とは、自分の専攻する学問(専門科目)とは異質な科目であり、卒業単位を満たすためにとる科目という位置付けでしょうか。そんな不遇な扱いを受けている教養科目ですが、現在の混迷した社会状況を乗り越えるためにも、教養教育は重要であり、その価値が見直されてきています。

例えば、哲学の講義では、プラトンやカントなど難しい哲学書に触れる機会があるでしょう。しかし、それは偉大な哲学者の言葉を知識として暗記することだけが目的ではありません。難解な文章を理解しようすることで、どのような文章でも正確に理解し、情報を正しく摂取する能力が培われるのです。

現在は未曾有のコロナ禍で日常生活が脅かされています。そのような中で、新型コロナワクチンが新たな技術で開発されました。ワクチンの接種は任意なので、各個人が「打つ」または「打たない」の決断をしなければなりません。そのような時に判断材料となるのが「情報」でしょう。情報化社会といわれる今日、ネット上には様々な情報が溢れています。信頼できる情報を選ぶ能力や、情報を正しく解釈できる能力、つまりリテラシーがないと正しい判断を下すことができません。ワクチン接種に見られるように、リテラシーの欠如は個人だけの問題ではなく、周囲の人々への影響、さらには社会全体のあり方にも影響してきます。

将来、何の役にも立たないだろうと思われる科目でも、その学問に触れることで、視野が広がることは間違いありませんし、長い人生の中で、学んだことが何かの役に立つ可能性はゼロとはいえません。大学における教養教育の目的とは、「幅広い視野から物事を捉え、高い倫理性に裏落ちされた的確な判断を下すことができる人材の育成」(平成14年、中央審議会)となっています。教養科目を担当する我々教員もこの目的を念頭において、教育の力量を高める努力をしていかなければなりません。

「奥行きのある専門性」を目指そう!

和泉 司

今の世界に生きる私たちは、インターネットによる通信技術の劇的な拡大によって膨大な量の情報を瞬時に得ることができるようになりました。そして、技術と経済の発展により、多くの人が安価に飛行機や鉄道、バス、船舶、自動車などを利用して、地球上のどこへでもいけるようになっています。それらによって、私たちは「グローバル化」というキーワードの下、これからは語学を身につけ、コミュニケーション能力を高め、世界各地の優秀な人々と競争し生きていかなければならない。そう思ってきました。

しかし、突如として起きたパンデミックは、私たちの移動やコミュニケーションのあり方をあっという間に制限し、変化させてしまいました。また、国や政府によって、情報や移動の自由や可能性が全く違うということも、明らかにしました。私たちの「今」の自由な生活は、当然でもなければ、永遠でもない。実に簡単に壊れ、変わってしまうものであったことを、私たちは気付かされています。このような変わりやすい社会の中で、私たちはどうやって生きていけばいいのか。どうやって社会を守っていくべきなのか。私たちはそういったことも学んでいく必要があります。

簡単に変化してしまう世の中で生きていくためには、優れた技術を何のために・どのように・誰のために使っていけばいいのかについて考えることが大切になります。大学生・大学院生の間に、専門性を高めつつ、社会の様々なことに注意を向けてみてください。友人と色々なところへでかけたり、遊んだり、学んだり、揉めたりするのも、一人で本に向き合ったり、映画に感動したり、ドラマやアニメに没頭したり、何もせずぼーっとしたりするのも、同じように大切です。

総合教育院の教員は、みなさんが社会とつながっていくための学問を教え、研究しています。豊橋技科大の中で、そういう私たちを、最大限に活用してください。みなさんがやってくるのを楽しみに待っています。

自由に生きるためのリベラルアーツ

岩内 章太郎

総合教育院のリベラルアーツ教育は、研究領域を横断した幅広い「教養」を提供します。その大きな目的の一つは、「自由」に生きるための能力を育むことです。しかし、自由とは何か。ドイツの哲学者ヘーゲルは、単に自分の好きなことをしているだけでは、人間は真に自由になることはできない、と考えました。というのも、私たちは、自分が成し遂げたことの価値を他者が認めてくれるときに初めて、自由であることを実感できるからです。

すると、そこで必要になるのは、どのように他者が世界を見ているのかを学ぶことです。他者が求めているものや大切にしているものをまったく顧慮しない行為は、じつは自由であることの満足を与えないのです。これはつまり、「多様性」の実質的な意味を――その表層的なイメージにとらわれることなく――理解することに等しい、と私は考えています。自由になるためには、他者から認めてもらうだけではなく、他者の自由を認めてあげなければならない、ということです。

豊橋技術科学大学には「多様性」を肌で感じるための環境があります。多様な学生、教員、技術/研究領域、講義/演習科目が一堂に会するのが、この場所だからです。多様性が具体的な形で目に見えるこうした環境は、みなさんの人生にとって貴重なものです。リベラルアーツを通して、さまざまな観点からの物の見方を学び、文化や社会によって異なる感受性や価値観を尊重しながら、人間社会における技術科学の意味と価値を考えてみてください。

ところで、総合教育院の言語教育は、「多様性」を媒介するためのツールを提供します。多様な感受性や価値観が存在していても、それらが相互に伝達されなければ、私たちは互いに孤立します。場合によっては、相手の心がブラックボックスになっていることへの不安は、不信や闘争の呼び水となるかもしれません。母国語以外の言語の学習は、多様性を尊重しながら、自由に生きていくために有効なのです。総合教育院のリベラルアーツを、ぜひ十分に楽しんで、自由を現実のものにしてください。

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