支考俳論と美濃派
上記のうち、3について報告する。
研究開始当初、俳文学研究においては、支考と美濃派は、極めて過小にしか評価されていなかった。その主な理由は、これまでの俳文学研究が、下記の傾向をもっていたからである。
(1) 芭蕉・蕪村・子規等の「文学性頂点中心主義」という傾向。
昭和25年~平成17年の連歌俳諧関係論文は約12,000件あるが、その内訳は、芭蕉に関するものが54%、蕪村に関するものが7%、一茶に関するものが5%、虚子に関するものが5%、子規に関するものが12%、その他が17%であり、これまでの俳文学研究は、芭蕉研究に極端に偏っていたのである。(研究代表者共編『連歌俳諧研究文献総目録』2009年4月)。
(2) 版本中心主義であり、伝書に対する評価が極めて低いという傾向。
さらに伝書には捏造されたものも多く、「いかがわしい」というイメージがつきまとっていた。
(3) 同門の許六や越人などの支考批判を、無批判に鵜呑みにしてしまったという傾向。
以上のような傾向により、支考は、芭蕉ほど「文学的に」優れた作品がないにも関わらず、芭蕉を利用して勢力を拡大した俳人、美濃派は、その支考の「いかがわしい」伝書を伝え、膨大な量の低俗作品を作り続けた一派、というのが定説になったのである。それゆえごく一部の研究を除いて、ほとんど研究されてこなかったのである。 芭蕉没後の俳壇は、地方俳諧と都会俳諧の二つを軸に展開するが、全国に圧倒的な勢力を誇ったのは、地方俳諧、すなわち支考率いる美濃派であった。そして、中興期の蕪村や蝶夢に媒介され、19世紀以降、俳壇には全国的に「美濃派的なもの」が広がってゆく。美濃派だけでなく、美濃派と直接の関係のない俳人たち(本研究では「非美濃派」と呼ぶ)、美濃派を批判する俳人達(本研究では「反美濃派」と呼ぶ)においても、その作品と俳論の内実は、美濃派の影響を色濃く受けたものとなってゆくのである。それが「月並俳諧」、明治期の旧派俳人へと展開し、そこから子規や虚子が登場する。
以上の構想のもと、本研究では、現在極めて過小にしか評価されない支考俳論と美濃派伝書が俳諧史に果たした役割を解明することを目的とする。それは、現在の芭蕉や子規といった頂点中心主義の俳諧史を是正し、庶民の文化活動として俳諧史を再構築することになるだろう。また、日本文学や日本文化において俳諧が果たした役割も明らかになるはずである。
(1) 支考と美濃派の伝書の調査
全国各地に所蔵されている支考と美濃派の伝書のうちで、本研究に直接関わるものを調査する。その際、研究代表者がかつて作成した「俳諧伝書データベース」(科学研究費補助金,奨励研究(A),平成12年~平成13年度,近世俳諧における伝書の基礎的研究,課題番号12710239)、「美濃派伝書データベース」(科学研究費補助金,若手研究(B),平成15年~17年度,美濃派伝書の分類整理に関する基礎研究,課題番号15720034)を用い、さらにそこに収録されていない新発見の伝書についても、確認できたものについては調査する。
(2) 支考の主著であり、後の俳論に強い影響を与えた『俳諧十論』『二十五箇条』の注釈書(江戸時代)の調査を行う。
(3) 『俳諧十論』『二十五箇条』を正確に解読する。
(4) 支考俳論と美濃派伝書、反美濃派、非美濃派の伝書などから、「美濃派的なもの」を取り出し考察する。
(5) 『俳諧十論』『二十五箇条』の美濃派伝書における展開を調査する。
(6) 上記を総合し、支考俳論と美濃派伝書が享保以降、明治までの俳論に与えた影響を解明、論証する。
(7) 支考俳論と美濃派伝書の俳諧史的展開を考察する。
本研究で明らかとなったのは主として下記である。
(1)「俳諧伝書データベース」「美濃派俳書データベース」に収録した俳論(伝書)の他に、新たに入手できた『俳諧四季』『俳諧作法書十三種』『五竹老子夜話』『(美濃派俳人)旅日記』『俳諧宗匠式』『俳諧盲定規』『俳諧自弁抄』『俳諧秘伝書』『俳諧初学二葉集』『俳諧書四種』『杉風伝書・野坡伝書』などを調査した。また、公共施設(大阪府立大学山崎文庫、岩瀬文庫他)に所蔵されている伝書類も調査し、支考と美濃派俳書の享受のあり方を調査した。
その結果、主として下記のことが明らかとなった。
(2) 江戸時代に書かれた『俳諧十論』『二十五箇条』の注釈を調査し、当時の俳人の『俳諧十論』『二十五箇条』解釈を検討した。中でも『俳諧十論』の注釈が本研究において重要であった。
調査した主な注釈書は下記の通りである。
(3) 蝶夢の俳論『蕉門俳諧語録』『門能可遠里』『俳諧童子教』を解読し、『蕉門俳諧語録』の出典調査を行った結果、蕉風復興運動を牽引した蝶夢が、支考の俳論を本質的に理解継承していることを明らかにした。蝶夢はしばしば美濃派を批判するが、それは同時代の美濃派の権威主義的なあり方に対して向けられたものであり、支考の俳諧観や俳論については、むしろそれを本質的に継承していたのである。
流派に囚われず、俳壇を全国的に巻きこんで蕉風復興運動を牽引し、多くの人に慕われた純朴な人柄の蝶夢の俳諧観に、支考の俳論が本質的に継承されていたということは、美濃派、反美濃派、非美濃派という枠組みを超えて、「美濃派的なるもの」が広く享受されていった大きな要因の一つであると考えられる。
(4) 「美濃派的なるもの」とは、用語においては「虚実」「七名八体」「俗談平話」などであり、俳諧観(理念)においては、「伝統にとらわれず、身近な素材を誰にでも分かる言葉で表現すること」「俳諧は日常生活(特に人間関係)を豊かにする「心」の問題(「心法」)であること」「俳諧は心の問題であるので、誰でもいつでも始められ、楽しめること」などである。
(5) 「美濃派的なるもの」は、俳諧に「文芸的に高い境地」を求める価値観とは別ものであり、文芸的に高い境地にいなくとも、普通の人が普通の感覚で、普通の日常言語を使って言語表現を楽しむことの意義を理念的に基礎付けたものであり、「月並俳諧」や幕末から明治にかけて膨大な数が残されている俳諧作品(今日の文学観からすると膨大な駄作群)を制作する行為を理念的に基礎付けたものであった。
支考と美濃派俳論は、蝶夢を媒介にして、伝統的な美意識や価値観、技巧に囚われず、自分の身近なものを自分の内面を出発点として、誰にでも分かる言葉で、素朴に表現してよいのであり、それが日常生活を豊かにし、純朴で徳のある人生を送ることに繋がるのであるという形で、流派を問わず享受されていったのである。
そのような理念のもとに量産された作品は、「文学的」な価値は低いかも知れないが、多くの人の生の充実感を支えていたのであり、そこから近代になって、さらに自己の内面の問題(「近代的自我」)へと展開してゆく。
正岡子規や高浜虚子の登場もその文脈で考えることができるのである。
以上をまとめる。
支考俳論と美濃派伝書は、これまでの俳文学研究では、ほとんど研究されてこなかったが、その影響は芭蕉以降の俳諧史に大きな影響を与えており、「美濃派的なるもの」は、反美濃派・非美濃派など、流派を越えて享受されており、それこそが、俳諧史の圧倒的多数派として俳諧の歴史を作っていったのである。蕪村や一茶や子規といった頂点は、その土壌から登場したと考えなければならないのである。
つまり、支考俳論と美濃派の伝書が、芭蕉没後から幕末までの間に全国的に普及し、反美濃派・非美濃派の俳書の中にも支考俳論と美濃派の影響が強く見られることから、その影響は流派を越えたものであったこと、その際、蝶夢の存在が大きかったこと、そして、「美濃派的」なるものが、幕末の月並俳諧や明治の旧派、そして子規や虚子へと展開することが明らかとなったのである。
このことは、頂点中心主義である現在の俳諧史の是正を促し、俳諧活動の実態に即した、真に豊かな俳諧史再構築の大きな契機となるだろう。またそれによって、例えば子規から漱石など、他文芸への影響も、子規個人ではなく、芭蕉以降の俳諧史的展開として意義付けられるだろう。
(研究代表者には下線)