高専の低学年の実体―国語の授業を通して―

 畑村 学


0. はじめに

 筆者が勤務する宇部高専の国語の授業は、1、2年生は現代文と古典(通年、3単位)、3年生は現代文(通年、2単位)を行い、4年生は担当教員により小論文、プレゼン、ディベート(半期、1単位)などを行っている。5年生は国語の授業はない。専攻科1年の「日本語表現」(半期、1単位)を含めて、常勤3名、非常勤2名で担当している。平成20年度、筆者は本科の1年2クラス)、2年4クラス、4年2クラス、及び専攻科1年を担当した。
 筆者は本校に赴任して12年目を終えようとしている。この間、日本経済の低迷と復調、そして再び悪化といった景気の大きながあり、ゆとり教育の弊害、少子化といった教育話題が社会問題として大きく取り上げられ、現在に至っている。高専生もそうした諸々の社会の変動に直接・間接的に影響を受けているのは間違いないであろう。
 そうした大きな社会問題と学生の学力との因果関係については筆者の考察範囲を超えており、筆者自身具体的なデータがあるわけではない。ここでは、10年強という比較的長期間、同じ職場で学生を指導し続けてきた経験から、最近感じている学生の国語力の低下について、特に1・2年生の問題に絞って述べることにしたい。

1. 消極的態度

① 暗記科目に対する学習意欲の低下

a漢字テスト

 筆者が担当する1~3年までの授業では、毎回の定期試験の評価に漢字テストの成績を加えている。全員が購入している漢字問題集(東京書籍『ステップアップ高校漢字問題集』)のうち15~20ページを範囲として、試験明け最初の授業(答案を返却する時間)を利用して漢字100問テストを行っている。
 漢字テストは定期試験の3割、100点のうち30点分を占めるため、試験で点数が取れなかった学生にとっては挽回のチャンスでもある。漢字テストは暗記さえすればある程度点数が取れるので、テストで良い点数が取れなかった学生にとっての救済策という意味もある。
 ところが、最近はこの漢字テストで点が取れない学生が目立つようになってきている。試験後に再試を行うのだが、1クラスから5人程度、多いクラスではクラスの半数が再試を受験するといったケースが今年度はあった。

b古文の成績不良

 同じような状況は、古文の定期テストでも起こっている。
 本校では、1・2年の国語は、現国・漢文で2単位(通年、90分)、古文1単位(通年、50分)となっている。ただし、国語の最終成績は2つの科目を総合した3単位となっており、どちらか一方がボーダーの60点をクリアしていても、他方が悪ければ3単位を取得できないということにもなっている。
 従来は、現国・漢文の成績が悪い学生も、語句や文法などを暗記さえすればある程度は点が取れる古文で点数を稼ぎ、国語の3単位を取っていた。ところがここ数年、古文の成績が悪いために、現国・漢文で60点をクリアしているにも関わらず、3単位の取得が困難となっている学生が目立つようになってきている。
 普通高校と違い、大学受験のための勉強をやる必要がないため、高専生にとって古典を学習する意義が掴みにくいのは事実であり、それは昔からよく言われていることである。ただ、それはそれとして、これまでの学生は割り切って授業を受け、それなりの点数を取ってきていた。ところが最近では、古文や漢文の学習に意欲がわかず、それがそのままテストの低い点数となって現れる学生が徐々にだが増えてきているように思う。

 漢字テストや古典の学習は、いずれも学習の仕方が暗記と大きく関わるという点で共通している。
 学生に直接聞いてみると、毎回良い成績を取っている学生は、やはり繰り返し問題集の問題を解き、間違った漢字は何度も書いて覚えているということである。成績の悪い学生は、ほぼ毎回悪い成績を取っており、徹底して覚えるという作業は行っていないようである。
 古文のテスト勉強に関しても、成績の良い学生に勉強の仕方を聞いて見ると、教科書に出てくる意味の分からない単語にマーカーで印を付けて徹底的に覚えること、文章全体を現代語訳できるかどうか確認し、できなければわからない箇所の意味を再度確認するということであった。実に単純な作業であるが、古典のテストで点数が取れない学生は、そうした基本的な作業すらほとんど行っていない。
 何事も新しい分野について学ぶ上で、特にその初期の段階では暗記は必要不可欠である。繰り返し声に出して暗唱すること、何度も書いて覚えることが高い学習効果を上げることについては、最近の脳科学や小学校での実践報告によって明らかになっている。このことは、高専の国語で行う漢字テストや古典の学習でも例外ではなかろう。
 学生には暗記の必要性を理解させる必要がある。また、自分で上記のような作業ができないのであれば、授業時間内に一定の時間を設け、問題集やプリントを使った作業をさせる必要があるであろう。

② レポート提出状況の悪化

 レポート提出の〆切を守れない学生は、以前から多くいた。しかしそうした学生でも、最終的な〆切(筆者の場合、テスト週間が始まる前としている)までには、たまったレポートを申し訳なさそうな顔をして一括して持ってきていた。しかし最近は、この最終〆切を過ぎてもレポートを出さない学生が増えてきている。
 後期中間試験以降、私は小論文の授業(全6回)を行った。授業の内容は、毎回異なる課題――1年生は学内の諸問題(クラスマッチ、高専祭、授業改善、アルバイト許可制度、制服など)、2年生は学生生活に関連した社会問題(コンビニの深夜規制、クラブ顧問の外部委託、英語による英語の授業、若者の読書離れなど)――を提示し、課題を検討して問題提起の仕方を考え、賛成・反対の根拠を検討する。検討した結果は所定のフォーマット(小論文の型)にはめ込み、それをもとに800~1000字程度の小論文を書くというものである。
 授業では、小論文の型まで書くことをノルマとし、授業時間内にできなければその日提出のレポートとする(型はほとんどの学生が提出)。提出した小論部の型はチェックし、翌日には返却し、小論文そのものは次の授業の前日までにレポートとして提出する。
 800~1000字の小論文を毎週書くのは確かに大変である。しかし、型さえきちんと書けていれば、あとはそれに肉付けすればそれなりに小論文らしくなり、こちらが求める最低限の条件はクリアできる。ところがこの小論文をほとんど提出しないまま単元を終える学生が、ここ数年徐々に増えてきている。
 小論文の授業を始める前まで、すなわち後期中間試験までの成績がさほど悪くなければ、小論文のレポートを出さなかったからと言って単位を落とすことはまずない。しかし、論理的思考力を身につける目的で1年の4分の1(計6回)を使って行う小論文の単元に限っては、他の学生が毎回の課題をこなして徐々に力を付けていくのとは対照的に、レポート未提出の学生は、結局学習する前とほとんど力が変わらないまま単元を終えることになる。
 こうしたレポート提出状況の悪化は、国語に限らず他の科目でも起こっているようであり、試験週間に入る前、教室の白板の隅や教室の掲示板には、一般・専門さまざまな科目のレポート未提出者リストが掲示されている。

2. 基礎知識の欠如

 最近の若者が言葉を知らなかったり不適切な言葉遣いを平気で行ったりすることは、すでに新聞やニュースで周知の通りである。ここでは小論文の授業を通じて気がついた、文章を書く上での基礎知識の欠如という点に絞り述べていくことにしたい。

a句読点の使い方

 学生のレポートを見ると、句読点の使い方を理解していないものが目立つ。
 例えば、文中に読点を一切入れずに切れ目なく文章を延々と書き続けるもの。読点は記すものの、文末の句点を欠くもの。また、行頭には句読点は来るはずがないのに、何の抵抗もなくそのまま行頭を句読点で始める学生のレポートも、最近よく目にする。

b一字下げ・段落の意識

 「段落の最初は一字下げる」というのは文章を書く上での基本であるが、このことに無頓着で、冒頭の一文字目から書き始める学生が少なからずいる。
 また、800~1000字の小論文を、一度も改行せずに一段落で書いてしまう学生のレポートも、小論文の授業を開始した当初はクラスにいくつも見ることができる。

 以上のような文章を書く上での決まり事は、本来高専に入学する以前の小学校や中学校ですでになされているはずである。しかし、学生が忘れてしまったか、あるいは指導が徹底されなかったのか、ここ数年の学生の文章に多く見られるようになった現象である。
 これら文章を書く上での基本知識の欠如は、文字の誤用、不適当な表記方法や表現とともに、学生を取り巻く近年の文字環境の変化に原因の一端を求めることができるように思う。なかでも携帯電話を使った頻繁なメールのやりとりは、その大きなものではなかろうか。
 携帯電話の学校への持ち込みを基本的に禁止されていない高専においては、携帯メールのやりとりは彼らのコミュニケーションの重要な手段の1つとなっている。私自身もクラスやクラブの学生と頻繁にメールをやりとりするが、学生のメールも私自身のメールも、せいぜい一、二文で完結するものがほとんどである。
 携帯の普及により、学生がこうした短いフレーズを書く――打つといった方が妥当であろうか――機会は以前の学生と比べてかなり増えているが、そこに記されているのは、口頭の言葉を文字にしただけの、言わば「おしゃべり」の延長のような文章である。そうした文章では句読点の必要性は希薄である。
 改行が全く無い「いびつ」な文章が増えているのも、携帯メールの頻用にその一因があるように思う。
 小論文やレポートなど比較的長い論理的な文章を書くためには、文章全体の構造(段落の構成)を考えなければならない。それは読書感想文などの作文の場合でも同じである。授業では、一段落の文字数が250字を超える文章は読みにくいので、改行して別の段落にするよう指導している。小論文や作文とは対照的に、携帯メールの文章が250字を超えることは基本的にない。ほとんどが一段落で収まる長さである。そのため改行する必要はなく、改行の必要がなければ一字下げをする必要も必然的になくなる。
 携帯メールの頻繁なやりとりが、メールという私的な文章と、授業で書く小論文やレポートといった、言わば公的な文章との境界線をあいまいにしてしまっているのではなかろうか。もちろん上記のような現象は一部の学生に限られているのであるが、その区別ができない、あるいはそうした注意が行かない学生の数は、最近明らかに増えてきているように思う。
 以上述べてきた句読点の誤った使い方や一字下げ、改行の問題は、指導によってほとんどの学生が矯正できる。ただ、1年後に同じくラスで小論文の授業をやったり、別の単元で比較的長い文章を書かせたりすると、前回身に付いていたはずのこの基本的な決まり事をすっかり忘れてしまっている学生が必ず現れる。指導する側としては、不適切な表現や言葉遣いとともに、こうした文章表現の基本的な決まり事に関しては、誤りを発見するたびに繰り返し指摘し、ねばり強く正していく必要がある。
 そしてそれと同時に、話し方と同様に文章においても公私の使い分けが必要であることを指導していくことが、低学年に限らずすべての学生に必要であろう。さらにこうした指導は、国語という教科だけで行うものではなく、専門科目を含めたすべての教科において行って行くべきものであると考える。